只身心を仏法になげすてて 更に悟道得法までをも望むことなく 修行するを以て是を不染汚の行人といふなり

タイトルは正法眼蔵随聞記の言葉です。
或る人に信じてもらえてないと悲しくなることがありました。怒って、悲しくて、寂しくて、泣いてしまいました。(本当に辛い時は心から「ダメでもいいにゃ~」とはいかないものです)
その時「修証義に学ぶ」(現代教養文庫)にこの言葉があることを思い出しました。
悟り・証・成長を望まない修行(=不染汚の行)。
言うは易し、行うは難し、です。人間はいつでもどんな場所でも成長を目的にして行動しますから。
でもこの言葉の後に書いてあった一節を読んで、少し腑に落ちるものがありました。
備忘録として書き留めておきます。
「恋愛」「恋」の部分を、仕事とか、子育てとか、介護とか、修行とか、峯入りとか、自分の今の悩みにあてはめてみると分かりやすいかもしれません。

 私たちは恋愛によって、「成長」する。恋は成っても破れても、とにかく恋愛によって「成長」する。しかし、成長のために恋愛するのは、恋愛ではなく恋愛の実験(エキスペリメント)である。成長の目的が意識にある限り、その恋愛の経験は根底に徹することができない。成長も破綻もこの恋に代えられなくなるとき、恋愛ははじめて身に染みる経験となる。そうして、その恋の結果として私たちは成長するのである。

 これを一般的の言葉に移せば、私たちは成長の目的を意識せずとも、すべて与えられた経験に深入りすることによって成長する。これに反して、成長の意識は一度具体的経験の深みに陥って死ななければ、その目的を実現することができない。成長の欲望を一度殺してよみがえらせることを知っているものでなければ、人生における個々の経験の意味を汲み尽くすことができない。その人の精神的生活の中心は永久に「成長の意識」に在って、経験内容の意識に移ることができないからである。

理不尽な事が生じたとき、低い評価を受けた時、身を任せて深みに陥ってみる。そこで苦しむ。死んでみる。そしてグチャグチャになってからよみがえる。

成長したいと意識して上ばかり見ていても、それは逆のようです。
理不尽も低評価も誹謗中傷も、もらえる時はもらっておいたほうがいいのかなあ。

そう考えると、ちょっと落ち着きました。

さ、次にいこ~っと!

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